読んだ・見た・聞いた・考えた

忘備録 思考録 未来日記

北本市学童保育連絡協議会 指定管理者制度に関すること(2011.2.27作成)

 北本市学童保育連絡協議会は、設立から30年以上を過ぎ、現在では公設民営方式で8つの学童保育室を運営しています。

指定管理者制度に関しては、地方自治法改正時より、市側から制度導入とNPO法人格の取得を要請されてきました。実際、北本市内においては、子育て支援関連では、障害児学童保育室、療育センターなどに指定管理者制度が導入されるに至っています。

連協では市側に対して同制度が導入されると保育の継続性が損なわれるのではないかという不安などについて意思表示をしており、市側も強硬な導入には至らないできました。

しかし、平成22年4月から71人以上の学童保育室には補助金が下りないといういわゆる大規模問題との関連で、市側は、A案として、大規模学童を分割するが、連協が指定管理者制度導入とNPO法人化を受け入れる、B案として、厳格な入室基準を市側が設け、大規模学童の児童の足切りを行って分割は行わない、という2つの案を提示し、どちらにするのか、という提案を持ちかけてきました。

本来性格が異なるはずの、大規模分割問題と、指定管理や法人格取得の問題とが、取引材料として提示されたのでした。最終的には、市長も交えて、昨年度の連協役員が面談し、A案の分割・指定管理を受け入れたという市側の認識でありますが、指定管理者制度導入に関する具体的な説明は父母や指導員に全くありませんので、この問題、とくに大規模分割問題と取引に使われた感があることについては、不信と疑念は晴れることがありません。

この疑念や不信・不安に関しては、市側に文書で投げかけたものの、回答はなく、市側に認識としては近い将来には導入したいということを表明してきました。

連協では指定管理者制度特別委員会を設け、学習をしてきましたが、委員になった親たちは、勉強すればするほど、指定管理者制度導入反対の認識を深めました。同委員会の議論の成果を取りまとめ、議員懇談会を開催しました。この春の統一地方選挙では、市議会議員及び市長選挙も予定されており、候補者へ向けたアンケートも実施する予定です。

一方、先日、保健福祉部長・副部長・子ども課長・担当者を交えて、指定管理者制度について話し合いたいとのことで、連協会長が呼び出されました。連協三役、NPO特別委員会の会長、指導員会などと一緒に出向き、これまで述べたような疑念がある点、全国的には学童保育への指定管理者制度導入によって弊害が多数報告されている点、業務委託形式でそもそも問題はないのではないかという点、また今の父母会・指導員の運営においても組織基盤・運営基盤がぜい弱なため、単にNPO法人化しても指定管理に耐える運営体制は整えられていない点、などについて訴えました。

そして、これまで8学童の運営に関して、管理的経費は全く計上することなく丸投げしてきたことについて改めて訴え、NPO法人格の取得に耐えうるような組織基盤・運営体制が整えられるように、人的・金銭的支援をすることを約束させました。

また、万が一導入された時には、選考委員会に利用者代表を入れるように訴え、「検討する」との回答を得ました。

保健福祉部長には、運営基盤の確立と指定管理者制度とは分けて考える必要があることを申し述べましたが、しかし、市側としては、このような約束は、指定管理者制度導入を前提としたものであるという認識を変えようとはしないと思われます。

「保育に欠ける」児童を対象に、父母と指導員が手弁当によって運営が行われてきた学童保育の時代は終わり、学童保育による子どもの生活・遊びの支援の必要性は誰もが認識する時代となったと思います。そんな中で、多くの父母は、ただでさえ金銭的にも時間的にも負担を強いられる学童保育の利用と運営へのかかわりを、何とかしてほしいと考えているのが実際です。そんな中で指定管理者制度が導入され、ひとつの業者としてみなされて競争せざるを得ない環境に追いやられることは、指導員はもちろん、父母にも大きな負担をさらに強いることになります。

もちろん、NPO法人格取得など、社会的に責任ある運営体制を、父母と指導員が協働してつくっていき、子どもが生き生き育つ環境をつくっていくことは、今後の我々の課題ではあります。

しかしながら、指定管理者制度導入は、そのような自立した責任ある子育て支援団体としての学童保育運営団体に成長することを阻害し、行政と市民とを分断し、協働して子育て支援事業をつくりあげていく契機を、永遠に失わせてしまうということを、今後も訴えていきたいと思います。

 

以上

薬学部とのIPE

 勤務先では、IPE(専門職連携教育)に取り組んでいる。この間、2度目の文部科学省からの大型補助金を得て、他大学(薬学部、医学部、生活環境デザイン)と共同で授業を構築することとなった。この3月にはキックオフのシンポジウムを実施する予定。

 薬剤師を取り巻く環境を学ぶために、この本は読んでおこうかなと思う。タイトルがタイトルだが。

「残る薬剤師」「消える薬剤師」 (ZAITEN BOOKS)

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戦後京都市の政治動態(3)

市政不信による保革対立から複合的対立へ(1985年~2011年)

 1985(昭和60)年の今川市政第2期を目指した選挙では、自由民主党・公明党・民社党日本社会党の推薦を受けた今川が44.86%の得票を得て当選したが、前回も立候補した新自由クラブ社会民主連合推薦の加地和、日本共産党推薦の湯浅晃も健闘した。今川市政1期目に起こった「古都税(古都保存協力税)問題」によって市政や市役所に対する批判が高まり、共産や社民連も今川を推薦・支持をせず他候補の推薦に回ったため、このような結果になった(吉田ら 2007)。

 2期で引退した今川市政の後、1989年の選挙戦は、9人が立候補する混戦となった。結果、無所属で公明党・民社党が推薦、自由民主党が支持した京都府医師会長の田邊朋之が、日本共産党推薦の木村万平を321票差で下した。ここまで共産推薦の木村が善戦できたのは、田邊に対して自民が「支持」となったこと、日本社会党社会民主連合が支持した医師の中野進、京都市教育長や助役を歴任した城守昌二なども立候補していたことが大きい。またバブル経済のさなか、地価高騰問題や景観論争が起こっており、木村の主張がそれまでの共産党支持層以外からも支持を受けたことも大きな要因であったと言われている(吉田ら 2007)。

 田邊は1993(平成5)年8月の2期目をかけた選挙においても、自由民主党・公明党・日本社会党民社党社会民主連合からの推薦を得、また新生党日本新党からの支持を受けて、日本共産党推薦の井上吉郎を破って再選したが、1996(平成8)年1月に任期途中で病気のため辞任した。この後を継いだのは、教育長から転じて自由民主党・公明党・社民党新進党新党さきがけからの推薦を受けて立候補した桝本賴兼であり、前回も立候補した日本共産党推薦の井上吉郎らを破り、接戦を制した。

 桝本市政の2期目がかかった2000(平成12年)の市長選も前回と同じ構図で、多数の政党の相乗り推薦を受けて、日本共産党推薦の井上吉郎らを破った。桝本は3期目をかけた2004(平成16)年の市長選挙においても、元京都府立大学長の広原盛明らを破って市長の座を守った。

 1993年以降2004年までの選挙は保革対立の構造であったが、2008(平成20)年の市長選では、桝本と同じ京都市教育長であった門川大作を含む4人が立候補し、門川は弁護士で日本共産党推薦の中村和雄に951票差で辛勝した。他の2候補も合計で10万票以上を獲得していることを考えると、事実上の桝本の後継者と目され、市職員出身の門川に対する風当たりは非常に厳しいものがあったと考えられる。

 

 

 以上のような保革対立から複合的対立構造となった京都市政の動向は、この間の市議会議員選挙の結果状況からも垣間見ることができる。中央政界と同様に、旧社会党の議席数は激減し、民主党が1999年の選挙で11議席を獲得し、直近の2011年の統一地方選挙では13議席となった。自由民主党の議席数は、1991年には27議席を獲得しているものの、23から24議席で推移し、公明党も12から13議席で安定している。日本共産党は18議席から21席の間を推移していたが、2011年には15議席に減少した。そして、それ以前はしばらく無所属議員の当選が難しかったが、1995年以降3議席を獲得し、直近の2011年には、地域政党の京都党が4議席を獲得するなど、新しい勢力の出現を見て取ることができる。

京都市政 公共経営と政策研究

京都市政 公共経営と政策研究

戦後京都市の政治動態(2)

革新市政から保革相乗り時代(1967年~1985年)

その後、1960年代からの様々な住民運動の発露や、中小企業・伝統産業界、医師会や文化人等による「京都府市民団体協議会」の誕生とその活動などもあって、非保守の勢力は拡大していった。そして、井上清一市長の急逝に伴って執行された1967(昭和42)年2月の市長選挙では、日本社会党日本共産党の推薦や府医師連盟などに推されて出馬した医師の富井清が、自由民主党民主社会党の推薦により出馬した前京都市交通局長の八杉正文を制した。京都市はここからいわゆる「革新市政」が展開されていくこととなる。

 

富井は病気のため1期で退いたが、1971(昭和46)年、京都市職出身で助役であった舩橋求己が日本社会党日本共産党の推薦を得て出馬し、前衆議院議員で自由民主党民社党が推薦した永末英一らを破り当選した。この時の投票率は59.0%と、京都市民の市政への関心も最高潮に達した。

1975(昭和50)年の選挙では、舩橋を日本社会党・公明党・民社党が推薦、自由民主党日本共産党が支持という立場をとったため、有力な対抗馬がなく、19.5%という過去最低の投票率で舩橋は再選を果たす。1979(昭和54)年の第3選を目指した選挙においても同様の結果で、投票率はさらに16.1%にまで落ち込んだ。

舩橋が任期途中で病気により引退したことにより行われた1981(昭和56)年の市長選では、無所属で自由民主党・公明党・日本社会党推薦、日本共産党民社党社会民主連合支持の旧内務省出身・京都市職・前助役の今川正彦に対し、新自由クラブ推薦の元衆議院議員である加地和が肉薄したが、今川が接戦で制した。この選挙は、保革中道型や保革連合型の政党支持の組み合わせによる首長選挙が日本各地で発生し、無投票や無風選挙となっていた中で、一定のインパクトを与えた。京都市においても過去2回の選挙が無風選挙となっており、「これ以上、市民の首長選択権を奪うな」という加地の訴えが、市民の共感を得たとされ(出典新聞記事)、投票率も27.11%にまで回復した。

 このいわゆる革新市政の時期の市議会勢力構成としては、自民党、公明党、民社党がほぼ勢力を維持するか微減・微増だったのに対し、無所属議員がほとんどなくなり、社会党1959年選挙のピークである20議席から徐々に議席数を減らした。そして共産党が大きく議席数を増やし、1971年選挙では社会党を抜いて第2党となっている。

 

 市会は、富井及び船橋市政第1期を除けばいわゆるオール与党体制である。戦後の市会は、特に高山市政第2期以降から井上市政期において与野党関係が固定化し、高山市政期の一般会計予算案を例にとると、ほぼ社会・共産両党の野党連合が一致して反対側に回り、自民会派を中心とする与党連合によって賛成・可決されてきた*1。少数与党となった富井市政期は複雑化し、自民・民社・公明の3党やそれに社会党会派も加わった連合によって示された修正案で可決にいたった例(196719681970年)や、自民・社会・公明・共産が賛成し民社が反対に回った例(1969年)などのバリエーションがみられた。しかしながら、1971年以降1978年までは、途中1976年に公明が反対に回ったことを除くと、他はすべて全会一致で可決に至っている(依田 1981)。予算審議という限られた側面ではあるが、それまでとは大きく異なり、全政党与党型議会の議会運営は、非常に容易になったと言えるだろう*2

*1:1956(昭和)年から1966(昭和)年までの11年間において、社会・共産が一般会計予算に反対したのは7回、共産のみが反対したのは4回である(出典)

*2:全政党与党型議会の中で各会派の意図を予算案には反映しにくい中では、「注文」を付けることで会派の努力を表現するほかはなく、予算案に付される「付帯決議」や決算案に付される「意見」の数は、高山・井上保守市政期と富井・船橋以降の革新市政期とでは大幅に異なり増加している(依田 1981)。

戦後京都市の政治動態(1)

戦後保守市政の時期(1947年~1967年)

 京都市の戦後における政治状況の把握については、市長の政治的立場によっていくつかの区分が試みられている(山口 1980; 山口 1981; 吉田ら 2007)。これらを参考に、戦後から2010年までの政治状況を概観する。

 公選制第1回市長選挙は1947(昭和22)年4月に実施され、無所属の神戸正雄が日本社会党公認の竹内克巳らを破って当選した。しかし同時に行われた衆議院選挙では、京都市全体を選挙区とする京都1区では、日本社会党の得票率が46.1%であった。さらには、1950(昭和25)年の市長選挙においては、日本社会党公認の高山義三が、無所属で新聞社出身・元助役・元京都市長代理の田畑磐門、戦後間もなく市長として任命された和辻春樹を破って市長となった*1。このように、戦後初期の段階において、社会党を中心とする勢力に対する支持が京都市内には強く存在していた様子がうかがえる。

 しかしながら、高山市長は第2期目以降から無所属に転じ、保守勢力から支持を受ける立場となった。1954(昭和29)年2月の市長選挙では、現職の高山が、左右の社会党から推薦を受けた元参議院議員の西園寺公一、前回も候補者だった大学講師の田畑磐門を破り、2選を果たす。次の1958(昭和33)年の選挙では、現職で無所属の高山が、日本社会党公認となった田畑磐門らを破って3選、そして1962(昭和37)年の選挙でも、同じく現職・無所属の高山が、日本社会党公認の加賀田進らを破って4選を果たすこととなる*2

 416年の長期にわたって市政をつかさどった高山の任期満了・退任にともない、1966(昭和41)年の選挙では、元参議院議員で無所属・自由民主党推薦の井上清一が、無所属の岡本清一、共産党公認の安井真造らを破って当選した。しかし井上は任期途中の1967(昭和41)年1月に病死する。

 

 京都市の戦後政治史はここまでを「保守市政」とし、その後の富井市長以降の「革新市政」と区分することができる(山口 1980)。しかし上に見るように、戦後第1回の衆議院選挙の結果、高山も初当選は日本社会党公認であったこと、また京都府知事は1950年から1978年まで728年間を日本社会党日本共産党推薦の蜷川虎三が担っていたことを鑑みると、保守市政期においても市民の政治的志向としては「非保守層」の基盤が強固に存在していた。

 このことは、市議会議員選挙の結果からもうかがい知ることができる。1947年の戦後第1回目の公選市議会議員選挙以降、自民党(1955年までは自由党民主党国民民主党等を含む)の議席数が最も多いものの、社会党は当初から18議席を獲得しており、共産党も当初こそ1議席であったが徐々に議席数を増やすに至っている。

 

 

 長期にわたった高山市政は市民の声を吸い上げる努力を様々行っており、市長選挙のたびごとに得票数も増加の一途をたどっていった。これは、神戸市政において「京都市連絡員」として発足し、高山市政において改称・拡充された「市政協力委員」制度、及びその連絡協議会の旧学区区域ごとの設置などによって、行政協力体制が草の根レベルまで張り巡らされたことも影響を与えている(山口 1981)。

 

京都市政 公共経営と政策研究

京都市政 公共経営と政策研究

*1:以降、候補者名及び得票率、投票率などの数値は、京都市選挙管理委員会発行の「京都市長選挙結果調」を参照した。

*2:この1962年の選挙は、結果として落選したが、共産党の反対により社会党が考えた候補予定者ではなく加賀田となったことや、選挙態勢に関する協定書を交わすなどのいきさつがあり、それまでの社会党主導型の社・共連合ではなく、社・共対等型へ移行した最初のケースであった。そしてその後1966年の選挙が社・共分裂選挙となったが、得票率は両者を合わせて現職の高山に肉薄していたことが関係者の反省材料となった。この2つの経験を踏まえて、1967年に富井を社・共連合候補として擁立して当選させ、革新市政が誕生したのである(依田 1981)

東日本大震災支援 さいたまスーパーアリーナの避難所における埼玉県立大学学生の支援活動について(2011.4.15)

東日本大震災支援

さいたまスーパーアリーナの避難所における埼玉県立大学学生の支援活動について

 東日本大震災によって埼玉県へ避難をしてきた方々に対して、さいたまスーパーアリーナが避難所として開設され、本学学生及び教職員がボランティアスタッフとして活動した。その経過及び実績について記し、今後の被災者・被災地へのボランティア活動の本学の取り組みの参考になればと考え、以下、報告する。

 

1.経過

3月17日(木)>

さいたまスーパーアリーナに5000人規模で人が収容されるとの報道を受け、収容時の生活支援が必要と考え、現地の担当者に話をうかがいに赴く。担当者(都市整備課職員)に、県立大学で組織的にボランティアを行う用意があることを伝える。すでに200人程度の避難者が生活していた。

〇情報では、31日までの退去、食事は出さないなどの条件で、入居を許可していた模様。ゲートキーパーの対応に対しては、複数NPO関係者から「好ましくないものだった」との指摘がある。

 

3月18日(金)>

〇朝、スーパーアリーナに赴き、埼玉県社会福祉協議会担当者に対して、県立大学でボランティアを組織する用意があること、そのメリットについて記した説明文書を作成し提示する。県社協担当者は、ボランティアは現在募集していないこと、今後組織的に募集する際には連絡することが伝えられ、連絡先を伝える。

〇午前、学長と県立大学での被災者の受け入れ、およびさいたまスーパーアリーナでのボランティアの組織化について相談。事務局副局長、佐藤雄二教授、次期学長三浦教授も同席。ボランティアコーディネートを行うことを指示される。

〇午後より、ボランティア募集に関して学内社会福祉学科学生にメールを流す。Gmailのアカウントを作成し、参加希望者はspu2011volunteer@gmail.comにメールを送るようにし、案内のメールを送付する。申し込み時には、学籍番号、名前、携帯電話番号、携帯メールアドレス、参加可能な日程を、統一の様式にて挙げてもらう。

春日部市社会福祉協議会から、老人福祉センターでのボランティア活動について打診があり、教務を通じて募集を一元化することが要請される。健康開発学科若林准教授と、看護学科新村講師に、老人福祉センターでのボランティア活動の調整を依頼(のちに共通教育の五條教授にも協力いただく)。

〇マスク、名札などを調達していただく。

〇18日夜より、徐々に参加希望学生からのメールが届く。

 

3月19日(土)>

〇午前中、自宅より、学内の学生に募集を試みる。WEBメールのためアドレスの設定が十分ではなく、学内の各学科一部の学生のみに送信したことがのちにわかる。その他、mixi県立大学のコミュニティに投稿する。

〇3月19日午後、スーパーアリーナに訪問。双葉町より徐々に避難者が来ており、観光バスからの荷物運びに携わる。健康開発学科佐藤教授とも連絡を取り合い、現地で会い今後の対応を協議。最終的には1200人の人々からの訪問がある。萱場現副学長にも連絡し、アリーナで合流。医療スタッフのことについて担当医師などと相談。看護スタッフの不足が予想されるので、ぜひ来てほしいとのことだったので、看護学科新村講師に連絡し、看護学科教員に連絡していただく。

〇すでに作業療法学科卒業生なども荷物運び等の活動をしていた。

〇埼玉県社会福祉士会が相談支援をすることを決めており、20日から参加意向のある学生については相談支援の補助スタッフとして活動してもらう見通しをつける。

 

3月20日(日)>

〇朝、社会福祉学科学生7名らがスーパーアリーナに集合。名札、マスクをわたし、これまでの経過と、注意点などについて説明。その後埼玉県社会福祉士会の補助スタッフとして避難所での支援を行う。

 

3月21日(月)>

〇朝、連絡を取り合っていた社会福祉学科高辻講師とスーパーアリーナで合流。参加学生は15名程度。高辻講師を中心に、さいたま市保育課が開設していた幼児の相談・遊び支援のコーナーでの活動と、子どもの保育・遊び支援の活動ルートを確保。埼玉県社会福祉士会の補助スタッフのルートとともに、活動を行う。高辻講師に任せ、新井は帰宅。

〇春日部の老人福祉センターに関する要請については、学生の応募もあり、参加可能学生の取りまとめとリストを若林講師を中心に行ってもらう。リストを春日部市社会福祉協議会に提示し、個別に連絡を取り合ってもらうように伝えたところ、シフト(朝、昼、夜中)を組むところまでこちらで実施することを望んでいた模様。個別に連絡をしたり連絡が来たりするのでは対応できないという理由で、今回は受け入れない、との連絡を若林講師が受ける。

 

3月22日(火)>

〇スーパーアリーナにて朝、参加学生の確認。15名程度。高辻講師とともに、保育のルート、社会福祉士会のルートに振り分け、両方の活動責任者と調整をして、学生は活動を行う。新井、高辻講師はその後出勤。

 

3月23日(水)>~<3月31日(木)>

〇スーパーアリーナにおける朝の参加学生の確認、振り分けについても学生にほとんど任せ、必要に応じて連絡を取るように伝える。3月29日には、今後の見通しや騎西高校に移転後の活動可能性について、各ボランティアの責任者に打診し、連絡先を伝える。

 学生からの最終報告を受けて、アリーナでの活動は終了とする。

 

 

 

2.登録学生数・参加学生数など

登録学生数  77(新入生を含む)

看護学科4年(卒業生)1  

看護学科3年(現4年)16  2年(現3年)8  1年(現2年)1  新入生1

理学療法学科3年(現4年)2  1年(現2年)2

社会福祉学科3年(現4年)13  2年(現3年)17  1年(現2年)8

作業療法学科1年(現2年)2

健康開発学科3年(現4年)2  2年(現3年)1  1年(現2年)3

  *一斉メールがうまくできなかったため、本活動を知らない在学生が多数いるので、学科の比較はできないことに注意。

延べ活動人数 おおよそ200人程度(現在再度確認中)

一緒に、横浜国立大学日本大学青山学院大学桜美林大学等の学生も活動を行う。

 

3.活動の内容

〇保育:さいたま市保育課、保育活動の主軸となっていたNPO法人彩の子ネットワークなどから要請を受け、屋外・屋内の保育、散歩や公園での遊び支援、図書館の運営、迷子の確認など。

〇相談支援:社会福祉士会やその他の団体とともに、健康や介護に関する相談や困ったことについての聞き取り。入院・入所事務手続きの補助など。

〇ごみ:ごみの回収

〇仕分け:救援物資や避難者の荷物などの仕分け。

 

4.学生による活動内容の報告・感想の抜粋

〇保育班で、子供たちと大縄やブロック等で遊びました。子供たちが思いっきり走ったり大声を出したりできる環境を作ってあげることが、とても大切だと感じました。また子供たちの笑顔に私たちが励まされました。      

〇私は中越地震などで身近な人や地域が被害を受けたとき、多くの方々に助けられました。今回、私も何かしたいと思い活動しました。ボランティアについて改めて必要性や弊害を考える機会になりました。ありがとうございました。     

さいたま市の保育では、基本的には保護者と一緒に遊び場に来た子供と遊びました。保護者が病院に行く等、理由がある場合のみ預かりをし、その際には担当の学生が1対1で必ず付くようになっていました。

洗濯班では、洗濯を希望する被災者の方と、自宅で洗濯しても良いと言ってくださっているボランティアとのマッチングを行いました。具体的には、被災者の方から洗濯物を預かり、ボランティアに連絡をし、ボランティアにはアリーナまで洗濯物を取りに来て、洗濯・乾燥が終わったらまたアリーナまで持ってきてもらい、ボランティアから被災者へ直接連絡をとって洗濯物を渡してもらうという流れになっていました。他にも、シャワー希望者のWith youへのご案内もしました。"           

〇遊んでいるうちに子どもが笑顔になるということが活動を通して1番嬉しく思えた点です。今回ボランティアの機会を与えていただき、ありがとうございました。これからも自分が出来ることを探して行動にうつせるよう生活したいと思います。           

〇今回とても貴重な経験をさせていただきました。微力でしたが少しでも役に立てたのならば幸いです。

〇内容は朝.昼.夜の食事後のゴミ収集で2.4.5階のアリーナ内に設置されたゴミの捨て場所に向かい、生ごみ、燃えるゴミ、燃えないゴミ、ビン.カン、新聞、段ボール、トイレのゴミなどを集めて回り1階のゴミゲートまで運びました。また廃棄となるパンやお弁当を袋に詰めたりもしました。アリーナで過ごした数日間学んだことや得たものがたくさんありました。ボランティアに参加して本当によかったと思います。ありがとうございました。

〇今回ボランティアに参加してみて、まずボランティアに来ていた人の多さに驚きました。各々の人が「サポートしたい」という強い思いで来ているのだな、と思うと大変温かい気持ちになりました。

突然慣れない土地に移ってきて不便な生活を強いられているにも関わらず、笑顔で遊んでいる子どもたちの姿を見て、こちらの方が元気をもらいました。中にはお母さんが恋しくて泣き出してしまう子もいて、そういう子たちを目の前にしてただオロオロするしかできない自分の無力さというのも感じました。

今回のボランティアで、さいたま市班の方や子どもたちの保護者の方などさまざまな方と関わることができたのは良い経験になりました。

今回のように、埼玉県の施設を避難者の方に提供して支援するということは初めての取り組みだったと思うのですが、どういうボランティアの団体がどういう取り組みをしているのか、といったボランティア全体としての情報が知れたら良かったなと思いました。"       

〇参加すること自体もとても悩み、自分の無力さに毎日毎日涙していましたが、先輩方をはじめ、被災者の皆さんの協力を賜り、最後まで活動させて頂くことができ、本当に感謝しています。

最終日には、初日とは違う意味で涙を流すことができ、達成感すら感じられました。と申しましても、復興はまだまだこれからで、今後とも更なる協力の必要性を改めて実感いたしました。

私にできることはほんの僅かかもわかりません。しかし、できることがあるかぎり、どんなことでも協力させていただくつもりでおりますので、今後ともよろしくお願いします。

今回は大変貴重な活動に参加させていただき、ありがとうございました。この体験は一生忘れません。お疲れさまでした。"        

 

5.活動の調整役を行った学生の最終の活動報告のメール

お疲れ様です。最終日の活動とまとめなどを報告致します。本日は保育班(外遊び)のみでした。内容はいつも通り避難者の子どもやボランティアさんの子ども達と一緒に遊び、16時頃には撤収となりました。

特に大きなトラブルも無く、アリーナ自体も16時頃にはほぼ全ての避難された方々の移動が完了されていました。

後に〇〇さんなど保育班の関係者さんとミーティングをして、保育班は解散となりました。また何かあれば学校や先生方に連絡が行くかもしれません。(〇〇さん的には学校などに連絡するのは苦手だから個人的に連絡するかも(笑)とのことです)

一応県大ボランティアでもミーティングをして今回のアリーナでのボランティアは全て終了という形になりました。上手くまとめられたかは不明ですが、円満に終わらせることは出来たと思います。

余談ですが、〇〇さんがテレ朝のインタビューに嫌々答えたそうで、僕と〇〇くんは埼玉新聞のインタビューを受けました。テレ朝はゲリラ的だったので使われるかは不明ですが、埼玉新聞は名刺を頂き「恐らく使われます」とのことでした。両方とも学生がボランティアに参加することについての内容だったと思います。一応ご報告致します。

最後になりましたが、色々と連絡調整などで先生方にはご迷惑をお掛けしたと思います。リーダーとして機能出来たかは分かりませんが何とか終えることができました。避難者の方々は引き続き大変な生活が待っているので安心することは出来ませんが、学生としてこれからも何かしらの支援ができればと思います。

長文になってしまいましたが、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。

 

 

6.今後の災害学生ボランティアコーディネートの課題(現在まで感じている点)

〇学生への活動周知方法と、活動先・活動予定の集約の迅速化・効率化(非常に時間がかかった)

〇どこまで教員が行い、どこまで事務局が行い、どこまで学生自身が主体的に行うかについての事前のシミュレーションと研修・教育。

〇ボランティア養成団体に対して、本学ができる範囲やできること(技能・割ける労力)などについての明確な意思表示。

〇調整業務を行うスタッフ(学生や非常勤スタッフ)の確保とノウハウの蓄積・継承。

〇ボランティアの調整団体・コーディネート機関とのパイプの確保・方法の蓄積・継承。

〇緊急時に使用するある程度の資材の確保

  (名札は新井が自宅のプリンタで作成。マスクなどの調達。軍手など)