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忘備録 思考録 未来日記

戦後京都市の政治動態(2)

革新市政から保革相乗り時代(1967年~1985年)

その後、1960年代からの様々な住民運動の発露や、中小企業・伝統産業界、医師会や文化人等による「京都府市民団体協議会」の誕生とその活動などもあって、非保守の勢力は拡大していった。そして、井上清一市長の急逝に伴って執行された1967(昭和42)年2月の市長選挙では、日本社会党日本共産党の推薦や府医師連盟などに推されて出馬した医師の富井清が、自由民主党民主社会党の推薦により出馬した前京都市交通局長の八杉正文を制した。京都市はここからいわゆる「革新市政」が展開されていくこととなる。

 

富井は病気のため1期で退いたが、1971(昭和46)年、京都市職出身で助役であった舩橋求己が日本社会党日本共産党の推薦を得て出馬し、前衆議院議員で自由民主党民社党が推薦した永末英一らを破り当選した。この時の投票率は59.0%と、京都市民の市政への関心も最高潮に達した。

1975(昭和50)年の選挙では、舩橋を日本社会党・公明党・民社党が推薦、自由民主党日本共産党が支持という立場をとったため、有力な対抗馬がなく、19.5%という過去最低の投票率で舩橋は再選を果たす。1979(昭和54)年の第3選を目指した選挙においても同様の結果で、投票率はさらに16.1%にまで落ち込んだ。

舩橋が任期途中で病気により引退したことにより行われた1981(昭和56)年の市長選では、無所属で自由民主党・公明党・日本社会党推薦、日本共産党民社党社会民主連合支持の旧内務省出身・京都市職・前助役の今川正彦に対し、新自由クラブ推薦の元衆議院議員である加地和が肉薄したが、今川が接戦で制した。この選挙は、保革中道型や保革連合型の政党支持の組み合わせによる首長選挙が日本各地で発生し、無投票や無風選挙となっていた中で、一定のインパクトを与えた。京都市においても過去2回の選挙が無風選挙となっており、「これ以上、市民の首長選択権を奪うな」という加地の訴えが、市民の共感を得たとされ(出典新聞記事)、投票率も27.11%にまで回復した。

 このいわゆる革新市政の時期の市議会勢力構成としては、自民党、公明党、民社党がほぼ勢力を維持するか微減・微増だったのに対し、無所属議員がほとんどなくなり、社会党1959年選挙のピークである20議席から徐々に議席数を減らした。そして共産党が大きく議席数を増やし、1971年選挙では社会党を抜いて第2党となっている。

 

 市会は、富井及び船橋市政第1期を除けばいわゆるオール与党体制である。戦後の市会は、特に高山市政第2期以降から井上市政期において与野党関係が固定化し、高山市政期の一般会計予算案を例にとると、ほぼ社会・共産両党の野党連合が一致して反対側に回り、自民会派を中心とする与党連合によって賛成・可決されてきた*1。少数与党となった富井市政期は複雑化し、自民・民社・公明の3党やそれに社会党会派も加わった連合によって示された修正案で可決にいたった例(196719681970年)や、自民・社会・公明・共産が賛成し民社が反対に回った例(1969年)などのバリエーションがみられた。しかしながら、1971年以降1978年までは、途中1976年に公明が反対に回ったことを除くと、他はすべて全会一致で可決に至っている(依田 1981)。予算審議という限られた側面ではあるが、それまでとは大きく異なり、全政党与党型議会の議会運営は、非常に容易になったと言えるだろう*2

*1:1956(昭和)年から1966(昭和)年までの11年間において、社会・共産が一般会計予算に反対したのは7回、共産のみが反対したのは4回である(出典)

*2:全政党与党型議会の中で各会派の意図を予算案には反映しにくい中では、「注文」を付けることで会派の努力を表現するほかはなく、予算案に付される「付帯決議」や決算案に付される「意見」の数は、高山・井上保守市政期と富井・船橋以降の革新市政期とでは大幅に異なり増加している(依田 1981)。