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忘備録 思考録 未来日記

戦後京都市の政治動態(1)

戦後保守市政の時期(1947年~1967年)

 京都市の戦後における政治状況の把握については、市長の政治的立場によっていくつかの区分が試みられている(山口 1980; 山口 1981; 吉田ら 2007)。これらを参考に、戦後から2010年までの政治状況を概観する。

 公選制第1回市長選挙は1947(昭和22)年4月に実施され、無所属の神戸正雄が日本社会党公認の竹内克巳らを破って当選した。しかし同時に行われた衆議院選挙では、京都市全体を選挙区とする京都1区では、日本社会党の得票率が46.1%であった。さらには、1950(昭和25)年の市長選挙においては、日本社会党公認の高山義三が、無所属で新聞社出身・元助役・元京都市長代理の田畑磐門、戦後間もなく市長として任命された和辻春樹を破って市長となった*1。このように、戦後初期の段階において、社会党を中心とする勢力に対する支持が京都市内には強く存在していた様子がうかがえる。

 しかしながら、高山市長は第2期目以降から無所属に転じ、保守勢力から支持を受ける立場となった。1954(昭和29)年2月の市長選挙では、現職の高山が、左右の社会党から推薦を受けた元参議院議員の西園寺公一、前回も候補者だった大学講師の田畑磐門を破り、2選を果たす。次の1958(昭和33)年の選挙では、現職で無所属の高山が、日本社会党公認となった田畑磐門らを破って3選、そして1962(昭和37)年の選挙でも、同じく現職・無所属の高山が、日本社会党公認の加賀田進らを破って4選を果たすこととなる*2

 416年の長期にわたって市政をつかさどった高山の任期満了・退任にともない、1966(昭和41)年の選挙では、元参議院議員で無所属・自由民主党推薦の井上清一が、無所属の岡本清一、共産党公認の安井真造らを破って当選した。しかし井上は任期途中の1967(昭和41)年1月に病死する。

 

 京都市の戦後政治史はここまでを「保守市政」とし、その後の富井市長以降の「革新市政」と区分することができる(山口 1980)。しかし上に見るように、戦後第1回の衆議院選挙の結果、高山も初当選は日本社会党公認であったこと、また京都府知事は1950年から1978年まで728年間を日本社会党日本共産党推薦の蜷川虎三が担っていたことを鑑みると、保守市政期においても市民の政治的志向としては「非保守層」の基盤が強固に存在していた。

 このことは、市議会議員選挙の結果からもうかがい知ることができる。1947年の戦後第1回目の公選市議会議員選挙以降、自民党(1955年までは自由党民主党国民民主党等を含む)の議席数が最も多いものの、社会党は当初から18議席を獲得しており、共産党も当初こそ1議席であったが徐々に議席数を増やすに至っている。

 

 

 長期にわたった高山市政は市民の声を吸い上げる努力を様々行っており、市長選挙のたびごとに得票数も増加の一途をたどっていった。これは、神戸市政において「京都市連絡員」として発足し、高山市政において改称・拡充された「市政協力委員」制度、及びその連絡協議会の旧学区区域ごとの設置などによって、行政協力体制が草の根レベルまで張り巡らされたことも影響を与えている(山口 1981)。

 

京都市政 公共経営と政策研究

京都市政 公共経営と政策研究

*1:以降、候補者名及び得票率、投票率などの数値は、京都市選挙管理委員会発行の「京都市長選挙結果調」を参照した。

*2:この1962年の選挙は、結果として落選したが、共産党の反対により社会党が考えた候補予定者ではなく加賀田となったことや、選挙態勢に関する協定書を交わすなどのいきさつがあり、それまでの社会党主導型の社・共連合ではなく、社・共対等型へ移行した最初のケースであった。そしてその後1966年の選挙が社・共分裂選挙となったが、得票率は両者を合わせて現職の高山に肉薄していたことが関係者の反省材料となった。この2つの経験を踏まえて、1967年に富井を社・共連合候補として擁立して当選させ、革新市政が誕生したのである(依田 1981)