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忘備録 思考録 未来日記

戦後京都市の政治動態(3)

市政不信による保革対立から複合的対立へ(1985年~2011年)

 1985(昭和60)年の今川市政第2期を目指した選挙では、自由民主党・公明党・民社党日本社会党の推薦を受けた今川が44.86%の得票を得て当選したが、前回も立候補した新自由クラブ社会民主連合推薦の加地和、日本共産党推薦の湯浅晃も健闘した。今川市政1期目に起こった「古都税(古都保存協力税)問題」によって市政や市役所に対する批判が高まり、共産や社民連も今川を推薦・支持をせず他候補の推薦に回ったため、このような結果になった(吉田ら 2007)。

 2期で引退した今川市政の後、1989年の選挙戦は、9人が立候補する混戦となった。結果、無所属で公明党・民社党が推薦、自由民主党が支持した京都府医師会長の田邊朋之が、日本共産党推薦の木村万平を321票差で下した。ここまで共産推薦の木村が善戦できたのは、田邊に対して自民が「支持」となったこと、日本社会党社会民主連合が支持した医師の中野進、京都市教育長や助役を歴任した城守昌二なども立候補していたことが大きい。またバブル経済のさなか、地価高騰問題や景観論争が起こっており、木村の主張がそれまでの共産党支持層以外からも支持を受けたことも大きな要因であったと言われている(吉田ら 2007)。

 田邊は1993(平成5)年8月の2期目をかけた選挙においても、自由民主党・公明党・日本社会党民社党社会民主連合からの推薦を得、また新生党日本新党からの支持を受けて、日本共産党推薦の井上吉郎を破って再選したが、1996(平成8)年1月に任期途中で病気のため辞任した。この後を継いだのは、教育長から転じて自由民主党・公明党・社民党新進党新党さきがけからの推薦を受けて立候補した桝本賴兼であり、前回も立候補した日本共産党推薦の井上吉郎らを破り、接戦を制した。

 桝本市政の2期目がかかった2000(平成12年)の市長選も前回と同じ構図で、多数の政党の相乗り推薦を受けて、日本共産党推薦の井上吉郎らを破った。桝本は3期目をかけた2004(平成16)年の市長選挙においても、元京都府立大学長の広原盛明らを破って市長の座を守った。

 1993年以降2004年までの選挙は保革対立の構造であったが、2008(平成20)年の市長選では、桝本と同じ京都市教育長であった門川大作を含む4人が立候補し、門川は弁護士で日本共産党推薦の中村和雄に951票差で辛勝した。他の2候補も合計で10万票以上を獲得していることを考えると、事実上の桝本の後継者と目され、市職員出身の門川に対する風当たりは非常に厳しいものがあったと考えられる。

 

 

 以上のような保革対立から複合的対立構造となった京都市政の動向は、この間の市議会議員選挙の結果状況からも垣間見ることができる。中央政界と同様に、旧社会党の議席数は激減し、民主党が1999年の選挙で11議席を獲得し、直近の2011年の統一地方選挙では13議席となった。自由民主党の議席数は、1991年には27議席を獲得しているものの、23から24議席で推移し、公明党も12から13議席で安定している。日本共産党は18議席から21席の間を推移していたが、2011年には15議席に減少した。そして、それ以前はしばらく無所属議員の当選が難しかったが、1995年以降3議席を獲得し、直近の2011年には、地域政党の京都党が4議席を獲得するなど、新しい勢力の出現を見て取ることができる。

京都市政 公共経営と政策研究

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